裁判で再現されるのは契約書ではなく、過去に存在した取引である
裁判では契約書が重視される。そのこと自体は間違いではない。契約書は当事者が作成した文書であり、契約内容を確認する上で重要な資料になるからである。
しかし、契約書は取引そのものではない。
現実の取引は、契約書が作成された瞬間だけで完結するものではない。利用者が資金を必要とし、業者へ問い合わせを行い、説明を受け、契約を締結し、金銭が交付され、その後に契約が履行される。場合によっては督促が行われ、交渉が続き、最終的に契約が終了する。そのすべてを含めて初めて、一つの取引と呼ぶことができる。
ところが裁判所は、その場に立ち会っていたわけではない。
裁判所の前にあるのは契約書であり、録音であり、メールであり、入出金記録である。いずれも取引の一場面を切り取った資料にすぎず、過去に存在した出来事そのものではない。
それでも裁判所は、「実際には何が行われていたのか」という問いに答えなければならない。
そのために行われるのが事実認定である。
事実認定とは、一枚の契約書を読む作業ではない。残された資料を手掛かりに、過去に存在した取引を可能な限り忠実に再現していく作業なのである。
一つの証拠は、一つの場面しか語ることができない
2社間ファクタリングをめぐる裁判では、「決定的な証拠は何か」という議論が繰り返される。
しかし、本当にそのような証拠は存在するのだろうか。
契約書は契約締結の場面しか語らない。
録音は、その会話が行われた時間しか記録していない。
送金記録は、金銭が移動したという事実しか示していない。
ホームページには会社が利用者へ伝えようとした内容が書かれているかもしれないが、それだけで実際の契約内容まで明らかになるわけではない。
どの証拠も重要である。しかし、その重要性は万能であるという意味ではない。
一つの証拠だけを見続ければ、どうしても取引全体を見失う。
だから裁判では、証拠を比較するのである。
契約前の説明と契約書の内容は一致しているのか。契約書と契約後の運用は一致しているのか。当事者の説明は実際の金銭の流れと矛盾していないのか。
こうした比較を繰り返すことによって、個々の証拠は初めて一つの意味を持ち始める。
証拠は孤立したままでは、多くを語らない。互いに照らし合わせられたとき、初めて過去の出来事を映し出す材料となるのである。
事実は積み木ではなく、一つの流れとして認定される
事実認定を「積み上げる」という表現はよく使われる。
しかし、この言葉だけでは十分ではない。
積み木を積み上げるように考えると、一つひとつの事実が独立して存在し、その数が増えれば結論に近づくような印象を受けるからである。
実際の事実認定は、それほど単純ではない。
裁判所が見ているのは、事実の数ではなく、それぞれの事実が一つの流れを形成しているかどうかである。
契約前の説明が契約書と結び付き、その契約書が契約後の運用と結び付き、その運用が実際の入出金記録と矛盾なくつながっている。
もし、その一連の流れが自然につながるのであれば、個々の事実は単なる断片ではなく、一つの取引を構成する要素として理解されることになる。
反対に、どれほど多くの証拠を提出しても、それぞれが別々の方向を向いているのであれば、取引全体の姿は見えてこない。
事実認定とは、事実を集める作業ではない。
それぞれの事実がどのようにつながり、一つの現実を形作っていたのかを確認する作業なのである。
実態は最後に姿を現す
2社間ファクタリングでは、「実態を見れば貸金である」という言葉が使われることがある。
しかし、その「実態」とは、最初から証拠の中に書かれているものではない。
契約書の中にもない。
録音の中にもない。
送金記録の中にもない。
実態とは、それぞれの証拠から認定された事実が、一つの取引として結び付いたときに初めて姿を現すものである。
だから、実態は探しに行くものではない。
断片となった事実を丁寧につなぎ合わせた結果として、自然に浮かび上がってくるものである。
裁判所が行う事実認定も、本来はそのために存在している。
過去に存在した取引を、美化することなく、推測だけで補うこともなく、残された証拠だけを頼りに再構成する。その作業を積み重ねた先に、契約書の名称では見えなかった取引の姿が現れる。
そして、その姿こそが、後に法的評価の対象となる「実態」なのである。

