事業者=保護不要という前提はどこで始まったのか─自己責任神話の起源と制度疲労

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■ 出発点は「近代法の理想像」

「事業者は保護不要である」という前提は、偶然生まれたものではない。
その起源は、近代民法が描いた理想的な市場像にある。

。民法は、対等な主体が自由意思に基づいて契約を結ぶことを前提として設計された。
事業者は、契約内容を理解し、交渉し、リスクを計算できる合理的主体と想定されている。
この抽象化された“理想の事業者像”が、そのまま制度の前提として固定化された。

■ 戦後行政が作った「線引き」

戦後、日本の消費者保護政策は、明確な線引きを行った。
守るべきは一般消費者。
守らないのは事業者。

。高度経済成長期、事業者は組織力と交渉力を持ち、市場で自己防衛できる存在とみなされていた。
この時代背景のもと、「事業活動に伴う取引は自己責任」という考え方が行政実務として定着していく。

■ 中小事業者という存在の軽視

問題は、この線引きがあまりにも粗かったことだ。
大企業と、従業員1人の個人事業主が、制度上は同じ「事業者」として扱われた。

。法制度は規模や情報格差を考慮せず、「事業者である」という属性だけで保護対象から除外した。
この時点で、制度は現実とのズレを内包していた。

■ 金融規制における自己責任論の完成

金融分野では、この自己責任論が特に強固に定着した。
事業者向け金融は、経営判断の一環であり、失敗も自己責任とされた。

。銀行融資、ノンバンク取引、保証契約。
いずれも「理解した上で契約したはず」という前提で運用され、説明義務や広告規制は限定的に扱われてきた。

■ IT化と広告市場が前提を破壊した

この前提が崩れ始めたのは、インターネット広告の時代である。
金融取引が、対面交渉ではなく、検索結果や広告文で選ばれるようになった。

。事業者であっても、専門知識ではなく「広告の言葉」で判断せざるを得なくなった。
ここで、事業者=情報強者という前提は、静かに崩壊した。

■ ファクタリングが突きつけた現実

2社間ファクタリングは、その崩壊を最も露骨に示した。
利用者の多くは、資金繰りに追い詰められた中小事業者や個人事業主である。

。だが制度上は、彼らは「自己判断できる事業者」であり続ける。
手数料が年率換算で100%を超えても、広告が誇張に満ちていても、保護は及ばない。

■ AIが決定的な一撃を与えた

生成AIの登場は、この前提に決定的な一撃を与えた。
AIは、広告やアフィリエイト記事を情報源として、金融商品を「一般論」として語る。

。事業者は、もはや自ら調査するのではなく、AIの回答を信じて判断する。
この状況でなお、「事業者なのだから自己責任」という理屈を維持するのは、現実逃避に近い。

■ 問われるのは制度の誠実さ

事業者=保護不要という前提は、特定の時代の市場観に基づく仮定にすぎない。
その仮定が崩れたにもかかわらず、制度だけが更新されていない。

。いま問われているのは、規制強化か自由かという二項対立ではない。
現実を見ない前提を、いつまで維持するのかという、制度の誠実さである。

■ 次の一手が示す国家の姿勢

この前提を見直すことは、単なる法改正ではない。
誰を守り、誰に自己責任を押し付ける国家なのかという、価値判断そのものである。

。ファクタリング問題は、その試金石だ。
ここで目を背ければ、「事業者向けだから」という言葉は、今後も情報弱者切り捨ての免罪符として使われ続けるだろう。