2社間ファクタリングという制度が生み出すもの

ファクタリングの違法性と契約について

2社間ファクタリングは、長らく「資金繰りの選択肢の一つ」として扱われてきた。
違法ではない。
契約に基づく取引である。
その前提が、議論をここまで単純化してきた。

しかし、制度の評価は、形式ではなく結果によって行われるべきである。
実際に何が起きているのか。
どのような経路で、同じ結末が繰り返されているのか。
そこを見なければ、この制度の是非は判断できない。

2社間ファクタリングが利用される場面は、ある程度共通している。
売上はある。
仕事も続いている。
ただし、入金までの時間が足りない。
支払い期日だけが先に来る。

この条件下で、利用者は迅速さを最優先に判断する。
審査に時間のかかる融資は間に合わない。
他の選択肢は、すでに現実的ではない。
その結果、請求書を資金化するという選択に至る。

契約内容は説明される。
手数料も明示される。
利用者は理解したうえで署名する。
ここまでは、制度側の説明どおりである。

問題は、その後に起きる。

請求書を譲渡することで、短期的な資金不足は解消される。
支払いは間に合い、事業は止まらない。
だが、その代償として、本来入金されるはずだった資金は消える。
次の資金不足が、ほぼ確定する。

この段階で、利用者の選択肢は増えない。
むしろ減る。
次に不足した資金を補う手段として、最も現実的に残るのは、再び同じ制度を使うことになる。

ここで重要なのは、再利用が衝動や無知によるものではない点である。
事業を止めない。
取引先との信用を守る。
従業員や家族を守る。
そうした合理的な判断の積み重ねが、再利用を最適解にしてしまう。

この構造は、業種を問わない。
建設業でも、運送業でも、フリーランスでも、同じ経路を通る。
個別の事情が異なっても、結果が揃うという事実は、制度の性格を端的に示している。

それにもかかわらず、問題は個人の判断に回収されてきた。
使い方が悪かった。
計画性が足りなかった。
理解が不十分だった。
しかし、異なる立場の利用者が、同じ順序で追い込まれるなら、それは個人の問題ではない。

合法であることが、長らく免罪符として機能してきた。
違法ではない。
だから問題ではない。
この短絡が、結果の検証を止めてきた。

本来、規制が存在しないことは、安全を意味しない。
検証が終わっていないことを意味する。
にもかかわらず、合法という言葉が、制度の評価を凍結させてきた。

注意喚起では、この構造は変わらない。
契約内容を理解すること。
慎重に判断すること。
それが可能な状況にある人は、そもそもこの制度を使わない。
注意が必要な状況にある人だけが、利用せざるを得ない。

結果として、2社間ファクタリングは、例外的な救済手段ではなく、資金圧迫を再生産する装置として機能している。
短期的な資金確保と引き換えに、中長期の事業体力を削る。
この結果が一貫している以上、制度は結果によって評価されなければならない。

問われているのは、使うか使わないかではない。
存在を前提にしてよい制度なのかどうかである。
合法という外形の裏で、同様の被害を生み続ける制度を、社会として容認できるのか。

この問いから、目を背ける段階は、すでに過ぎている。