2社間ファクタリング・脱法金融・合法ヤミ金が疑われなくなる瞬間
2社間ファクタリング、脱法金融、合法ヤミ金。
これらの言葉は本来、強い警戒を伴って語られるべき概念だ。ところが現実には、「実績がある」という一言によって、それらの危険性は簡単に中和されてしまう。
実績とは、本来、成果を検証可能な形で示すための言葉である。数字があり、比較があり、失敗と対になって初めて意味を持つ。しかし2社間ファクタリングをめぐる実績は、そのどれも満たしていない。それでも実績という言葉が出た瞬間、脱法金融であることや、合法ヤミ金に近い構造であることへの問いは止まる。
■ 実績は「脱法金融」という言葉を無力化する
脱法金融という言葉は、制度の抜け穴を突き、実質的には金融でありながら規制を回避している状態を指す。しかし、その説明の直後に「実績があります」「多くの企業が利用しています」と続けられた瞬間、警戒は一気に薄まる。
脱法であるかどうかより、使われているかどうかが重視される。この順序の逆転が、実績という言葉によって自然なものとして受け入れられてしまう。
■ 合法ヤミ金という評価を「成功事例」が押し流す
合法ヤミ金という言葉は、法の網をすり抜けながら、実態としては過酷な負担を強いる仕組みに対する評価だ。しかし実績が前に出ると、この評価は極端に言いにくくなる。
「これだけ実績があるのに」
「実際に助かっている人がいるのに」
こうした空気が、合法ヤミ金という言葉を過激な表現に押し戻す。実績は反論ではないが、反論の必要を消してしまう。
■ 2社間ファクタリングの「成功」は瞬間で定義される
2社間ファクタリングにおける実績の成功条件は単純だ。契約が成立し、資金が入金された時点で成功とされる。その後、手数料負担がどう累積したか、資金繰りが改善したか、再利用に陥ったかは含まれない。
この成功定義の狭さが、実績を無限に生産可能にしている。成功の定義を提供側が独占している限り、検証は成立しない。
■ 数字があるようで、検証できない
「〇〇社の実績」「〇〇件の取引」という表現は、数字の形をしている。しかし、脱法金融や合法ヤミ金性を検証するために必要な数字は、そこには含まれていない。
失敗件数
途中解約率
継続利用率
利用後の経営悪化率
これらが示されない限り、実績は検証資料ではなく広告に近いものになる。それでも「実績」という言葉が使われることで、説明であるかのように受け取られてしまう。
■ 実績は「合法性の証明」の代用品になる
本来、合法であるかどうかは法制度と監督によって担保されるべきものだ。しかし2社間ファクタリングの世界では、「実績がある」ことが、あたかも合法性や妥当性の証明であるかのように扱われる。
実績が積み上がっている以上、問題ではない。
実績がある以上、危険とは言い切れない。
こうして、脱法金融であるという指摘も、合法ヤミ金だという評価も、すべて相対化される。
■ 実績は検証を「失礼」にする
2社間ファクタリングや合法ヤミ金構造を批判しようとすると、必ず実績が持ち出される。その結果、問いを立てる側が「現場を知らない」「現実を見ていない」存在にされる。
ここで実績は論拠ではなく圧力として機能する。検証は理屈ではなく空気によって止められる。
■ 実績が覆い隠す最大の問い
本来問われるべきなのは、なぜ脱法金融に頼らざるを得ない事業者がこれほど多いのか、なぜ合法ヤミ金と呼ばれる仕組みが市場として成立しているのか、なぜ2社間ファクタリングだけが例外的に扱われているのか、という構造そのものだ。
だが実績が前面に出ると、議論は常に個別の成功例に分解され、この問いに辿り着かない。
■ 実績は答えではなく、遮蔽物である
実績という言葉が検証を止めるのは、それが答えのように振る舞うからだ。しかし実際には、実績は問いを遮るための幕でしかない。
脱法金融であるかどうか。
合法ヤミ金と呼ぶべきかどうか。
2社間ファクタリングという仕組みが社会的に許容されるべきかどうか。
これらは実績の多寡で決まる問題ではない。
■ 実績を疑うことが、議論の出発点になる
実績があるという言葉を聞いたとき、問うべきなのは「どれだけあるか」ではない。「何が実績に含まれていないのか」だ。
そこからしか、2社間ファクタリングという脱法金融、そして合法ヤミ金という評価の是非は検証できない。

