行政と金融機関が沈黙すると、脱法金融が「普通」になる

不存在債権は「詐欺か?」「不当原因給付か?」

本来であれば、行政は問題事例を集め、明確な警告を発するべき立場にあります。しかし2社間ファクタリングについては、被害統計すら整備されていません。被害がないからではありません。相談が制度上分類されず、貸金トラブルとして扱われないため、統計に乗らないのです。

統計が存在しないと、「問題は確認されていない」という便利な言葉が成立します。行政は深刻さを測りきれず、金融機関は距離を取り、学者は慎重な姿勢を崩さない。結果として、社会には誤ったメッセージが流れます。それは、「そこまで危険なら、とっくに問題になっているはずだ」という思い込みです。

その思い込みこそが、合法ヤミ金にとって最大の保護膜になります。


「必要悪」という言葉が、合法ヤミ金を育てる

脱法金融はしばしば必要悪と呼ばれます。資金繰りに苦しむ事業者が他に頼る場所がないから、最後の駆け込み寺として存在するのだと。こうした言説は一見、弱者の味方を装いますが、実際には業者の側に立った理屈です。

必要悪と認めた瞬間、その市場は自動的に正当化されます。規制論は後退し、倫理的批判は弱まり、利用者自身が「仕方ない」と口にし始める。こうして、違法とは言い切れないが極めて有害な仕組みが、“社会に受け入れられた選択肢”に変わってしまうのです。

必要悪という言葉が便利なのは、「悪である」という核心を曖昧にしたまま容認できる点にあります。実態が合法ヤミ金であるにもかかわらず、綺麗な名称で覆い隠す。言葉が現実をやわらげ、そのやわらいだ認識が被害の拡大を後押しする。これが最も危険な連鎖です。


利用者が存在する限り、参入者は減らない

ここで直視しなければならない事実があります。合法ヤミ金を成立させ、さらに儲けさせ、参入者を増やしているのは、他ならぬ利用者の存在です。もちろん「だから利用者が悪い」と責める話ではありません。追い詰められた資金需要が現実に存在し、その需要に合法ヤミ金が群がっているという構図そのものが問題なのです。

利用が続く限り、この市場は縮小しない。利益が出る限り、業者は撤退しない。そして利益が大きければ、必ず模倣者が現れる。ここでは倫理より収益性が優先され、実態としての金利がどれほど高くても、「売掛債権の売買」という形式が免罪符として機能してしまうのです。

結果として、被害は個々の契約単位で散在し、統計にはなりにくく、社会問題として可視化されにくい。しかし見えないということは、存在しないということではありません。むしろ、見えないまま拡大していくタイプの問題だからこそ厄介なのです。


「合法ヤミ金」という呼称が嫌われる理由

今日、2社間ファクタリングを合法ヤミ金と呼ぶと、強い反発が返ってくることがあります。業者はもちろん、関係者、時には利用者さえも不快感を示す。しかし不快だからといって、その呼称が間違っているわけではありません。嫌われる理由は、実態を正確に突いているからです。

合法という言葉が示すのは、形式上は法に反していないという事実。ヤミ金という言葉が示すのは、実質として高利に近い搾取構造。その二つが並んでしまうことで、市場の本質が一行で露骨に表現されてしまう。それを聞きたくない人が多いから、この言葉は嫌われるのです。

呼び名を柔らかくすれば、現実が柔らかくなるわけではありません。むしろ、厳しい名称を避けた瞬間に、問題を直視する力が弱まります。言葉は思考を規定し、思考は政策を規定し、政策は現実を変えます。だからこそ、実態が合法ヤミ金であるなら、その言葉を使う勇気が必要なのです。


結び──沈黙が最大の温床になる

2社間ファクタリングという脱法金融の市場は、派手なトラブルやスキャンダルが少ない代わりに、静かに広がる性質を持っています。被害統計は整わず、規制論は表に出にくく、「自己責任」の一言で片づけられがちです。そしてこの沈黙こそが、合法ヤミ金にとって最も都合の良い環境になります。

問題を問題として呼ばない社会では、修正は始まりません。言葉を弱めれば、批判も弱まります。だからこそ、実態を正確に捉えた呼び方を選び、その構造を文章として徹底的に描き出すことが必要です。

合法ヤミ金は、単なる一業態の問題ではありません。
「見えていないことにしてしまえば、どれほどの搾取でも成立する」という社会の脆弱性そのものを映し出しています。