それでも、この問題を書き続ける意味はあるのか──2社間ファクタリング批判は無力化されていないか

ファクタリングのトラブル

問いをあえて裏返すところから始める

それでも、この問題を書き続ける意味はあるのか。
この問いに対して、もはや反射的に「ある」と答える段階は過ぎている。

なぜなら、2社間ファクタリングを巡る構造的な問題点は、この数年でほぼ出尽くしているからだ。
手数料が異常に高いこと、実質的に貸付と変わらないこと、合法ヤミ金や脱法金融と呼ばれても反論しきれない設計であること、広告が過剰に安全性を演出していること、比較サイトが送客装置として機能していること、そして利用企業の多くが「延命」すらできていないことは、すでに何度も繰り返し書かれてきた。

それでも市場は止まっていない。
むしろ、広告表現は洗練され、言い回しは柔らかくなり、「危なそうな金融」という印象は巧妙に薄められつつある。

この現実を前にすると、「書く意味そのものがもう失われているのではないか」という疑念の方が、むしろ自然に思えてくる。

啓発が“ノイズ”に吸収される構造

最大の問題は、批判記事や注意喚起コラムが、もはや市場の外部に存在していない点にある。

検索結果には、業者の公式サイト、ランキング形式の比較サイト、体験談風の広告記事、そして危険性を指摘するコラムが、すべて同じ画面に並ぶ。
ユーザーの目には、それらは等しく「資金繰り情報」として処理される。

ここで何が起きるか。

どれだけ否定的なことを書いても、それは「この市場にはリスクもあるらしい」という一種の安心材料に変換されてしまう。
結果として、「危険性も理解したうえで使いました」という自己正当化のロジックを、むしろ補強してしまう。

本来、啓発はブレーキになるはずだった。
しかし今は、心理的な免罪符として機能し始めている。

実は、書く側も市場の一部になっている

さらに不都合な事実がある。

この問題について書けば書くほど、検索トラフィックは増え、広告単価は上がり、問い合わせが入り、別案件につながる。
つまり、「批判している側」も経済的には、この市場の外にいない。

これは道徳の問題ではなく、構造の問題だ。

2社間ファクタリング市場が存在する限り、それに対する解説、批判、注意喚起、相談窓口、代替手段の紹介、そのすべてが一つの経済圏を形成する。
この時点で、「書くこと=純粋な抵抗」という物語は、すでに成り立たなくなっている。

極端に言えば、批判記事ですら、この市場のエコシステムの一部として“消費”されている。

それでも意味がゼロではない理由

ここまで来ると、「じゃあ、もう黙った方がマシなのではないか」という結論が自然に見えてくる。

短期的な市場縮小という観点だけで見れば、誰も何も言わなくなる方が、業者は一時的に困るかもしれない。
しかし、それでもなお書く意味が完全にゼロではない理由がある。

それは、読者層が変わり始めているからだ。

以前は、「もうファクタリングを使うと決めた人」しか読んでいなかった。
最近は、「まだ検索していないが、薄く資金繰りに不安を感じている人」や、「銀行に断られて、次の一手を探している段階の人」が、流入し始めている。

この層にとって、最初に触れる情報が比較サイトか、批判記事かで、意思決定の方向は大きく変わる。
つまり今の役割は、市場を止めることではなく、市場に入る人数を減らすことに変質している。

これは劇的な成果ではない。
数字で測れるほどの効果も、ほとんど出ない。
それでも、確実に「踏み込まなかった一社」は生まれている。

結論:意味はある。ただし、勝てる戦いではない

それでも、この問題を書き続ける意味はあるのか。

答えは、ある。
ただしそれは、「この市場を終わらせられる」という意味ではない。

意味があるのは、一人でも2社間ファクタリングを回避する人が増えること、一社でも「まだ別の道がある」と気づく会社が出ること、一回でも、比較サイトではなく批判記事が先に読まれること、その小さなズレを積み重ねることにしかない。

これは、勝てる戦いではない。
派手な成果も出ない。
報われる保証もない。

それでも、「何も言われなくなった瞬間」に、この市場は本当に無制限になる。
合法ヤミ金や脱法金融に限りなく近い仕組みが、完全に“普通の金融”として定着してしまう。

だから結局、この問題は書き続けるしかない。

市場を止めるためではなく、飲み込まれる人を一人でも減らすために。

それでも、この問題を書き続ける意味はあるのか。

ある。
ただしそれは、英雄的な意味ではない。
もっと地味で、割に合わなくて、誰にも感謝されない意味だ。

それでも、それしか残されていない。