Ⅰ. 「誰も悪くない社会」が一番悪い
ファクタリング業界の闇を追うと、いつも同じ答えに行き着く。
――「誰も悪くない」。
行政は「法がないから動けない」と言い、
司法は「契約したのだから仕方ない」と言い、
広告業界は「依頼があっただけ」と言う。
だが、その“誰も悪くない”の積み重ねが、
この国の“合法的犯罪社会”を作ってしまったのではないか。
ファクタリング問題は、単なる金融トラブルではない。
制度と慣習が、責任のない正義を量産してきた結果である。
Ⅱ. 行政 ― 見て見ぬふりの制度温存者
行政は「監督権限がない」と言う。
しかし、実際には被害の相談は届いており、業界構造も把握している。
それでも動かない。なぜか。
行政にとって最大の関心は、「秩序の維持」であり、「救済の実現」ではない。
悪質業者を摘発すれば、制度全体への不信が広がる。
だからこそ、行政は“部分的な注意喚起”にとどめ、
問題を“管理できる範囲の混乱”として黙認してきた。
つまり、行政は「放置」ではなく「計算された静観」を選んでいる。
それは、一見安定した制度のように見えるが、
実態は**“被害を制度の下に隠す仕組み”**でしかない。
Ⅲ. 司法 ― 正義より形式を守る機械
司法はもっとも中立的に見える。
だが、その“中立”こそが、不正義を温存する最大の装置となっている。
契約書が合法なら、救えない。
証拠が足りなければ、立証できない。
法が想定していない取引なら、適用できない。
この「できない」の三重構造の中で、
被害者はいつも法廷の外へ追い出されていく。
裁判所は「立法府が決めた範囲でしか裁けない」と言う。
しかしそれは、“形式を守るために人を見捨てる”正義だ。
もはや、法の執行者である以前に、
現実から逃げる制度そのものになっている。
Ⅳ. 広告 ― 嘘を合法にする産業
そして、この構造の最前線にいるのが広告業界だ。
「第三者装い型サイト」「中立比較」「口コミ代行」――
これらはすべて、消費者が“自分で選んだ気にさせる”ための仕掛けである。
広告代理店は、法律の文言を読み込み、
“表現上は合法、実態は欺瞞”という綱渡りの技術を磨いてきた。
それはもはやマーケティングではなく、合法的な詐欺である。
しかも、行政の広報や公共機関のキャンペーンにも
同じ代理店が関わっている。
つまり、“嘘をつく技術”が公的機関にまで浸透しているのだ。
倫理を忘れた広告産業が、
この国の「信用」を最も静かに侵食している。
Ⅴ. 制度の連鎖と「共犯の構図」
この三者――行政・司法・広告――は、
それぞれ独立しているようで、実は互いを補完し合う関係にある。
行政は「法的には違法でない」として黙認し、
司法は「契約の自由」を盾にして容認し、
広告は「規制がない範囲で表現の自由」として演出する。
この連鎖が生むのは、“無責任の三位一体”。
そこには、救済のための制度ではなく、
加害を成立させる制度的環境が完成している。
誰も直接手を汚さない。
だからこそ、誰も罰せられない。
それが、現代日本の“制度的犯罪”の本質である。
Ⅵ. 「責任を取らない技術」
現代社会の官僚化と法制化は、「責任を取らない技術」を発達させた。
書類が整っていれば合法。
説明を尽くしたと記録に残せば、行政責任は回避できる。
契約が成立していれば、司法は口を閉ざす。
形式の完璧さが、実態の不正を覆い隠す。
もはや正義は、内容ではなく文書の整合性で判断される時代だ。
これは、官僚制が進化した結果ではない。
正義の形式化による退化である。
Ⅶ. 社会が“合法的悪”に慣れてしまった
そして何より恐ろしいのは、
この状態に私たち自身が慣れてしまったことだ。
「悪質だが違法ではない」
「怪しいが自己責任」
「わかって契約したのだから仕方ない」
そうした言葉を、私たちはもう何百回も聞いてきた。
つまり、制度的無責任は、すでに社会の常識にまで浸透している。
その結果、被害者は“自己責任”という名のもとに沈黙させられていく。
Ⅷ. 結語 ― 「誰も悪くない社会」に終止符を
制度の共犯構造を断ち切るには、
まず“誰も悪くない”という幻想を壊さなければならない。
行政には「権限がない」と言わせない政治的責任を、
司法には「契約書の外側」を見る勇気を、
広告には「倫理のある虚構」を取り戻す義務を。
そして、私たち市民もまた、
“合法的悪”を許さない視線を持たねばならない。
「正義の責任」を取り戻すこと。
それが、この国の制度を再生させる唯一の道である。

