■ 問題は「無知」ではない
まず最初に、はっきりさせておく必要がある。
行政がファクタリングを「金融でない」と言い続けるのは、知らないからではない。
実態が資金調達であること。
短期資金繰りに依存させる構造。
高額な実質コスト。
これらを、行政はすでに把握している。
にもかかわらず、「金融ではない」という表現が選ばれ続けている。
■ 「金融」と認めた瞬間に起きること
なぜか。
理由は単純で、極めて政治的だ。
金融と認めた瞬間に、行政は逃げられなくなる。
監督責任が生じる。
規制の不作為が問われる。
過去の放置が問題化する。
被害拡大との因果関係を追及される。
つまり、「金融でない」は責任回避の防波堤なのである。
■ 責任の所在を消すための言語操作
「金融でない」という言い回しは、法的分類の説明ではない。
責任を切断するための言語である。
金融でなければ、金融庁の所管ではない。
金利規制も及ばない。
広告規制も限定的になる。
被害は民事で処理される。
行政は、関与していないことになる。
■ 「民民の取引」という魔法の言葉
行政が好んで使う言葉がある。
「民間同士の取引です」。
これは、問題が存在しないという意味ではない。
行政が関与しないという宣言である。
だが、金融史を見れば明らかだ。
民間同士の取引が暴走したからこそ、金融規制は生まれた。
「民民だから放置する」は、歴史的に否定された思想である。
■ なぜ今、それが復活しているのか
答えは、ファクタリングが「金融っぽいが金融でない」曖昧な位置にあるからだ。
貸付ではない。
金利ではない。
手数料だ。
債権売買だ。
こうした形式論は、行政にとって極めて都合がいい。
規制せずに済む。
説明責任を負わずに済む。
失敗を認めずに済む。
■ 行政にとっての最悪は「制度設計の失敗」
行政が最も恐れるのは、業者の不正ではない。
制度設計を誤ったと認めることである。
もしファクタリングを金融と認めれば、こう問われる。
なぜここまで放置したのか。
なぜ広告を野放しにしたのか。
なぜAIや検索結果に介入しなかったのか。
これは、「過去の行政判断そのもの」が問われる問題だ。
■ 「見ない」という政策選択
行政は、ファクタリングを禁止していない。
同時に、積極的に規制もしていない。
この状態は中立ではない。
放置という明確な政策選択である。
しかも、「金融ではない」と言い続けることで、放置を正当化している。
■ 被害者が増えても、行政は無関係という構図
被害が出る。
訴訟が起きる。
倒産が増える。
だが、行政は言う。
「個別事案です」。
「民事で解決してください」。
これが可能なのは、最初から金融として扱っていないからだ。
因果関係が制度上、遮断されている。
■ 結論:「金融でない」は行政の自己防衛である
行政が「金融でない」と言い続ける理由。
それは、理論でも、法律でも、公益でもない。
責任を負わないためである。
金融と認めた瞬間、監督責任が発生し、不作為が問われ、是正義務が生じる。
その一線を越えないために、「金融ではない」という言葉が使われ続けている。
■ 次に問われるべきこと
もはや論点は明確だ。
ファクタリングが金融かどうかではない。
行政が、いつまで逃げ続けるのかである。
次は、
「金融と認めた瞬間に何が起きるのか」。
「行政不作為が成立する法的条件」。
ここへ進める。

