二社間ファクタリングが今日まで生き延びてきた理由は、法解釈の難しさでも、制度の未整備でもない。
「実質貸付と認めない」という判断が、繰り返し“記録”として積み上げられてきたからだ。
重要なのは、それが「判断不能」だったのか、それとも「判断回避」だったのか、という一点である。
結論から言う。
これは後者だ。
まず押さえるべき事実がある。
行政は、二社間ファクタリングの問題点を把握していた。
買戻し条項。
分割返済。
期限利益喪失。
遅延損害金。
事実上の元本保証。
これらが並ぶ契約が、貸付と極めて近似した経済実体を持つことは、
専門家であれば誰でも理解できる。
それでも公式文書に残る言葉は、常に同じだ。
「一概には言えない」
「個別具体的に判断される」
「直ちに貸付に該当するとは言えない」
否定ではない。
肯定でもない。
判断しない、という判断である。
この「判断しない」という姿勢は、
一度きりではない。
注意喚起文書。
ガイドライン。
国会答弁。
監督指針。
あらゆる場面で、同じ言い回しが反復される。
これは偶然ではない。
公式記録に“認定しなかった痕跡”を、意図的に残し続けているからだ。
なぜか。
その一行が、将来の責任を防ぐ防波堤になるからである。
もし行政が、過去のどこかで明確に「実質貸付」と書いていれば、
次に問われるのは必ずこれだ。
「では、なぜ放置したのか」
監督権限があり、問題を認識しており、なお是正しなかった。
これはもはや見解の問題ではない。
不作為の成立要件を満たす。
だから書けない。
だから残せない。
「認めなかった」という事実を、文書として積み上げるしかなかった。
司法も同じ構図にある。
裁判所は繰り返し、「貸付に該当するかは個別判断」と述べる。
だが注目すべきは、否定の理由が示されないことだ。
なぜ貸付ではないのか。
どの要素が決定的に欠けているのか。
そこは語られない。
語られないまま、「本件では貸付とは言えない」とだけ記される。
これは判断ではない。
判示の体裁を取った回避である。
こうして何が起きたか。
・行政は「公式認定していない」
・司法は「確定判断をしていない」
・業界は「違法とは言われていない」
この三点が、相互に免罪符として機能し始める。
誰も肯定していないのに、誰も否定していない。
その隙間で、二社間ファクタリングは延命する。
これはグレーゾーンではない。
グレーを維持するための記録管理だ。
さらに悪質なのは、この「認めなかった記録」が、業者側の宣伝に転用される点である。
「行政も違法とは言っていない」
「裁判でも貸付と認定されていない」
それは事実かもしれない。
だが同時に、誰も“貸付ではない”と断言していない事実も、意図的に隠される。
沈黙が、安全性の証拠にすり替えられる。
これは法治の歪曲だ。
ここで問いは一つに収束する。
本当に、「判断できなかった」のか。
それとも、判断した結果、書かなかったのか。
二社間ファクタリングの問題は、法の射程外にあったのではない。
法を適用した瞬間に起きる連鎖を、誰も引き受けたくなかっただけだ。
業界が吹き飛ぶ。
行政責任が露呈する。
過去の沈黙が裁かれる。
だから、「実質貸付」という言葉だけが、記録から消され続けた。
だが記録は、完全ではない。
「一概には言えない」という文言は、裏を返せば、該当し得ることを前提にしている。
「個別判断」という言葉は、一般論として否定できないことの告白でもある。
逃げた痕跡は、同時に知っていた痕跡でもある。
それが、今積み上がっている「全体像」だ。
二社間ファクタリングは、違法か合法かの問題ではない。
違法と書かなかった歴史の上に成り立っている。
そしてその歴史は、いつでも反転する。
一つの文書。
一つの判決。
一つの公式認定。
その瞬間、これまで積み上げてきた「認めなかった記録」は、不作為の証拠に変わる。
だから恐れられている。
だから避けられている。
だが、記録はもう十分に揃っている。
足りないのは、事実を事実として書く、その一行だけだ。
それを書いた者が、この業界を終わらせる。

