問題は利用判断ではなく、制度の前提にある
これまでの回では、仕組み、説明、判断、事例、法制度との距離を整理してきました。
その積み重ねから見えてきたのは、使うか使わないかという個別判断の問題ではありません。
そもそも社会に存在させてよい制度なのかという、より根本的な問いです。
利用者の判断力に委ねれば解決するという発想自体が、すでに現実と乖離しています。
なぜなら、この制度は、判断力が十分に発揮できない状況を前提に成立しているからです。
困窮状態を前提に成立する取引という矛盾
ファクタリングが利用される場面は、ほぼ例外なく資金的に追い込まれた状況です。
時間がない。
選択肢がない。
比較できない。
この状態で成立する取引を、自由意思による契約だと見なすこと自体に無理があります。
制度が想定している契約自由の前提が、現実には成立していません。
この矛盾を放置したまま、取引形式だけを理由に正当化することはできません。
債権譲渡という形式が隠している実質
ファクタリングは債権譲渡だと説明されます。
形式上は正しい説明です。
しかし、実質は、将来の入金を担保にした資金供給です。
資金を先に渡し、後から確実に回収する。
条件によっては、利用者の経営判断を長期に縛る。
この構造は、金銭消費貸借と本質的に異なるとは言えません。
形式だけを根拠に規制を免れている状態は、制度の抜け穴です。
説明で補えない構造的な不当性
説明を丁寧にすれば問題は解消される。
そうした主張もあります。
しかし、これは現実を見ていません。
どれだけ説明を尽くしても、困窮状態にある利用者は、条件を冷静に比較できません。
理解したうえで選んだという形式だけが残り、実質的な選択の自由は存在しません。
説明の質の問題ではありません。
構造そのものが不当なのです。
繰り返される被害は偶然ではない
同じような結果が、何度も、別の場所で繰り返されています。
継続利用に陥る。
資金繰りが改善したように見えて悪化する。
他の選択肢が消えていく。
これは、個別の失敗ではありません。
制度が生み出す必然的な帰結です。
偶然ではなく、再現性がある。
その時点で、社会は制度として容認すべきではありません。
規制されていないことは正当性を意味しない
法的に禁止されていない。
だから問題はない。
この論理は、啓発の視点では成り立ちません。
法制度は常に後追いです。
過去にも、合法でありながら社会的に排除されてきた取引は数多く存在します。
規制の有無ではなく、社会に与える影響で評価する。
それが本来の順序です。
存在を許せば、必ず弱者に集中する
この制度が存在し続ける限り、利用者は特定の層に集中します。
資金に余裕のある事業者は使いません。
選択肢を失った事業者だけが、吸い寄せられます。
結果として、弱い立場の者ほど不利な条件を受け入れさせられる。
この構造を内包した制度を、社会が許容する理由はありません。
結論としての啓発
ここまで整理してきた内容を踏まえると、結論は明確です。
ファクタリングは、使うか使わないかを検討する対象ではありません。
社会に存在させてはならない制度です。
個々の利用者に注意を促すだけでは不十分です。
問題の所在は、制度そのものにあります。
存在を前提にした議論を続ける限り、同じ被害は繰り返されます。
この連載の目的は、恐怖を煽ることではありません。
構造を言葉にし、見えない前提を可視化することです。
その結果として、存在を許してはならないと結論づける。
それが、啓発としての責任だと考えます。

