ぜ「契約がある」ことで正当化されたのか―合意という形式が、検証そのものを停止させた

ファクタリングの違法性と契約について

契約自由の原則が持つ前提の見落とし

2社間ファクタリングが長く正当化されてきた背景には、「契約が存在する」という事実が、取引内容の是非を検証しないための理由として使われてきた構造がある。日本の法制度では契約自由の原則が強く尊重されており、当事者が合意し書面を交わしていれば、その契約は原則として有効とされる。この考え方自体は市場経済の基盤であり、否定されるべきものではない。

しかし、この原則には重要な前提がある。当事者が対等であること、十分な情報を得たうえで選択していること、交渉の余地が存在することだ。2社間ファクタリングでは、この前提がほぼ成立していないにもかかわらず、形式だけが独り歩きしてきた。

資金繰り逼迫という非対称な状況

利用者の多くは、銀行融資や公的支援が使えず、差し迫った支払いを目前にしている。選択肢は事実上一つしかなく、条件を拒めば資金は入らない。この状況で結ばれる合意は、法的には契約であっても、実質的には交渉の結果とは言い難い。

それでも署名があり、説明を受けた旨の記載があり、契約書が存在するというだけで、取引は「当事者間で解決済みの問題」と整理されてきた。ここで検証されるべきだったのは条件の妥当性だったが、実際には形式の有無だけが判断基準になっていた。

契約という形式が生んだ思考停止

行政や専門家にとっても、契約の存在は扱いやすい。明確な違法条項が確認できない限り、民事上の問題として整理でき、制度側が踏み込む必要はないという結論に至りやすいからだ。その結果、問題は「事業者同士の契約」という枠に押し込められ、社会的な検証の対象から外されてきた。

この構造は、利用者自身の意識にも影響を与えた。自分で署名した以上、文句を言うべきではない。そう思い込むことで、明らかに不利な条件であっても疑問を口にできなくなる。被害は声にならず、声にならない被害は社会問題として可視化されない。

契約は免罪符ではない

本来、契約は責任の終点ではない。契約があるからこそ、その内容が公正か、妥当か、社会的に許容されるかが問われるべきだ。しかし2社間ファクタリングでは、契約の存在が検証を打ち切る理由として機能してきた。契約がある。だから問題ない。この短絡が長期間にわたり繰り返された。

合意はあった。しかし対等ではなかった。書面はあった。しかし選択肢はなかった。この矛盾を見過ごしたままでは、どれほど契約書を整備しても、同じ問題は形を変えて再生産される。

問われるべき本当の論点

問われるべきなのは、契約が存在したかどうかではない。その契約が、成立してよい条件の下で結ばれたものだったのかどうかである。この視点を欠いたままでは、2社間ファクタリングは今後も「合法」という言葉の陰で正当化され続ける。