失敗として処理されてしまう出口
2社間ファクタリングから抜け出せなくなった事業者の多くは、最終的に廃業や倒産という形で市場から姿を消す。その過程は、外部から見ると一つの経営判断の失敗として整理される。資金繰りが行き詰まった。売上が回復しなかった。それだけの話として処理され、取引の中身が検証されることはほとんどない。
ここで重要なのは、問題が起きた時点では、すでに声を上げる主体が弱体化しているという点だ。事業を畳む過程にある者が、取引構造の問題を社会に訴える余力を持つことは稀である。声が出ないのではない。出る前に消えていく。
契約した事実が沈黙を強いる
事業者自身も、声を上げにくい理由を抱えている。自ら契約書に署名し、条件に同意したという事実が、発言の正当性を奪うからだ。納得していなかったとしても、選んだのは自分だという意識が残る。その結果、被害を語ることが、言い訳や責任転嫁のように感じられてしまう。
この心理は強力である。特に事業者は、自立や責任を重んじる文化の中で活動している。失敗を外部の構造に帰すること自体が、自己否定のように感じられる。そのため、体験は内側に閉じられ、共有されない。
業界構造が可視化を拒む
2社間ファクタリングは、業界としての顔が見えにくい。統一された団体があるわけでもなく、業者は入れ替わりが激しい。問題が顕在化したときには、当事者となった業者がすでに姿を消していることも少なくない。
訴える相手が特定しにくい状況では、声は社会問題として結晶化しない。個別のトラブルは点として存在しても、線にも面にもならない。結果として、問題は常に散発的な事例として扱われ、構造的な議論に進まない。
メディアが扱いにくい理由
メディアにとっても、この問題は扱いづらい。被害者が明確に一方的な弱者とは言い切れず、契約が存在し、違法性が直ちに示せないからだ。消費者金融や詐欺のように、分かりやすい構図が成立しない。
さらに、事業者の失敗という文脈に回収されやすいため、社会的関心を喚起しにくい。結果として、記事になったとしても注意喚起にとどまり、構造批判に踏み込むことは少ない。この扱いづらさが、沈黙をさらに固定化する。
声が出る頃には遅すぎる
皮肉なことに、本当に声を上げたくなるのは、すべてが終わった後である。資金が尽き、事業を続けられなくなり、生活そのものが揺らいだ段階だ。しかしその時点では、社会的な発信力も、取材に応じる余力も残っていない。
この時間差が致命的である。問題が進行している最中には声が出ず、声が出せる頃には聞き手がいない。こうして、同じ構造が何度も繰り返される。
沈黙こそが最大の異常
2社間ファクタリングに関する最大の異常は、被害を受けた事業者が存在しないように見える点にある。使われ続けている。抜け出せなくなる事例もある。それでも、社会にはほとんど声が届かない。
沈黙は安全の証明ではない。むしろ、声を上げられない構造が完成している証拠である。この構造を直視しない限り、問題はいつまでも個人の失敗として処理され続ける。

