「選択の自由」は最も便利な免責装置である
2社間ファクタリングが問題視されるたびに、必ず持ち出される言葉がある。
それは「事業者が自ら選んだ」という説明だ。
この一言があるだけで、取引の妥当性や構造的危険性は検証されなくなる。
自由に選んだのだから、結果は自己責任だという整理が成立してしまう。
だが、ここで使われている「選択の自由」は、実態を伴っていない。
選択肢が極端に限られ、他の道が事実上閉ざされている状況での選択は、本来、自由とは呼ばない。
それでも社会は、この言葉を使うことで思考を止めてきた。
選択肢が消えたあとに提示される「自由」
多くの事業者が2社間ファクタリングに辿り着く過程は共通している。
銀行融資は難しい。
公的支援は時間がかかる。
取引先への条件変更は言い出せない。
そうして選択肢が削られた末に、最後に差し出されるのが2社間ファクタリングだ。
この段階で残っているのは、複数の選択肢ではない。
「使うか、資金繰りが詰まるか」という二択に近い状況である。
それを指して自由な選択だとするのは、言葉の乱用にほかならない。
社会は「構造」より「判断」を問うほうが楽だった
構造の問題を認めるということは、制度や市場の歪みを認めることを意味する。
それは行政の責任につながり、金融のあり方につながり、専門家やメディアの姿勢にも及ぶ。
一方で、個人の判断の問題に回収すれば、誰も深く責任を負わずに済む。
だから社会は、「なぜこんな仕組みが成立しているのか」ではなく、
「なぜそんなものを選んだのか」という問いを繰り返してきた。
選択の自由という言葉は、その問いの向きを個人側に固定するための装置だった。
「契約がある」という事実が思考を止める
2社間ファクタリングは、契約に基づく取引である。
その事実もまた、「自由な選択」を補強する材料として使われてきた。
合意がある以上、外部が口を出すべきではない。
そうした空気が、構造的検証を遠ざけてきた。
しかし、契約が存在することと、取引が健全であることは別の話だ。
情報の非対称性、切迫した状況、継続利用を前提とした設計。
これらが揃えば、契約は形式的な合意に過ぎなくなる。
それでも社会は、契約という事実に寄りかかり続けた。
「自由」を盾にした沈黙の連鎖
行政は「違法ではない」と言い、
金融機関は「本人の選択」と距離を取り、
専門家は「最終判断は事業者」と中立を装い、
メディアは「注意喚起」に留める。
この連鎖を支えてきた共通言語が、「選択の自由」だった。
誰かが「使うな」と言えば、自由を侵すのかという反発が返ってくる。
その空気が、明確な否定を封じてきた。
結果として、最も弱い立場にいる事業者だけが、自由という名のもとに孤立する。
危険な仕組みは、自由の名で放置される
社会が2社間ファクタリングを選択の自由に押し込めてきたのは、
それが最も摩擦の少ない処理方法だったからだ。
だが、繰り返される資金前倒し依存と経営の疲弊は、
もはや個人の選択では説明できない段階に来ている。
自由とは、本来、守られるべきものだ。
しかしそれは、危険な仕組みを放置するための免罪符ではない。
選択の自由という言葉が使われるたびに、
本当に選べていたのか、他の道は示されていたのか。
その問いを差し戻すことからしか、この問題は終わらない。

