脱法金融を「選択肢」と呼ぶ社会の異常性

ファクタリングのトラブル

合法ヤミ金が“普通”として流通するまで

2社間ファクタリングが脱法金融であり、合法ヤミ金に限りなく近い仕組みであるにもかかわらず、社会ではこれが平然と「資金調達の選択肢」と呼ばれている。この言葉遣いこそが、異常の核心である。
選択肢とは、本来、比較可能であり、選ばない自由が担保されている場合にのみ成立する概念だ。だが、脱法金融が置かれている文脈に、その前提は存在しない。

■ 選択肢という言葉は、危険を中和する

脱法金融を「選択肢」と呼んだ瞬間、その仕組みは中立化される。
良い面も悪い面もある一手段。
状況次第では有効な方法。
理解した上で使えば問題ない。

こうした言説は、脱法金融が本来持つ構造的な危険性を、すべて利用者側の判断に転嫁する。
選択肢という言葉は、制度の問題を消し、個人の問題にすり替えるための便利な緩衝材として機能している。

■ 脱法金融は「比較可能」ではない

本来の選択肢は、条件やリスクを比較できなければ成立しない。
しかし2社間ファクタリングは、銀行融資や公的支援と同じ土俵に置かれていない。
時間的猶予を失い、他の道が閉ざされた状態で提示されるものを、選択肢と呼ぶこと自体が欺瞞である。

それは選択ではない。
追い込まれた末の残余であり、事実上の一択だ。
脱法金融が選択肢として成立しているのではなく、社会がそう呼ぶことで成立させている。

■ 「逃げ道」という美化が異常を固定化する

脱法金融は、しばしば「最後の逃げ道」と表現される。
この言葉もまた、異常を覆い隠す。
逃げ道とは、本来、安全圏へ抜けるための経路を指す。
だが、2社間ファクタリングは出口ではない。
延命であり、消耗の先送りであり、依存の入口である。

それを逃げ道と呼ぶ社会は、崖から落ちる前に手を伸ばす行為を、救済と呼んでいるに等しい。

■ 選択肢と呼ぶことで、責任は完全に切り離される

脱法金融を選択肢と呼べば、次に来る言葉は決まっている。
「選んだのは本人だ」
「理解した上で契約している」
「結果は自己責任だ」

ここで、制度側の責任は完全に消える。
なぜそんな仕組みが存在するのか。
なぜそこまで追い込まれる構造が放置されているのか。
これらの問いは、選択肢という言葉一つで封じられる。

これは偶然ではない。
選択肢という言葉は、脱法金融を社会的に免責するための装置として機能している。

■ 合法ヤミ金を「普通」にする言語の暴力

合法ヤミ金が本当に危険なのは、金利や手数料の問題だけではない。
それが「普通の選択肢」として言語化される点にある。
言葉が変われば、認識が変わる。
認識が変われば、問題は問題でなくなる。

脱法金融が特別なものではなくなった社会では、被害は異常ではなく、想定内の出来事として処理される。
ここに、最も深刻な制度的腐敗がある。

■ 選択肢と呼ぶ社会は、弱者を前提にしている

脱法金融を選択肢として成立させている社会は、暗黙の前提を持っている。
追い込まれる事業者が一定数存在すること。
資金繰りに失敗する層が出続けること。
そして、その層が脱法金融を引き受けること。

これは包摂ではない。
構造的な押し付けである。
脱法金融を選択肢と呼ぶ社会は、弱者の存在を前提条件として組み込んでいる。

■ 異常なのは仕組みだけではない

脱法金融そのものが異常なのは言うまでもない。
しかし、それ以上に異常なのは、それを選択肢と呼び、並べ、比較し、説明し、受け入れている社会の側である。

危険なものを危険だと言わない。
搾取に近いものを搾取と呼ばない。
脱法金融を脱法金融と認めない。

この言語の歪みこそが、問題を長期化させてきた。

■ 脱法金融は選択肢ではない

結論は単純だ。
脱法金融は選択肢ではない。
それは、制度が失敗した結果として現れる警告灯である。

それを選択肢と呼ぶ社会は、警告灯を見て、問題がないと言っているに等しい。
この異常を異常だと認めない限り、合法ヤミ金は形を変えて生き残り続ける。