【2026年新春版・総括】2社間ファクタリングは「誰の責任でもない状態」で定着した

ファクタリングのトラブル

2社間ファクタリングがここまで拡大し、2026年の新春を迎えてもなお市場として存続している最大の理由は何か。それは優れた金融手法だからでも、需要が本質的に健全だからでもない。責任の所在が意図的に分解され、消失した状態で定着したという一点に尽きる。

業者は「合法」を盾に責任を回避した

業者の立場は一貫している。2社間ファクタリングは貸付ではなく債権売買であり、法律上問題はない。この説明は形式的には正しい。しかしそれは、社会的影響や利用後の現実に対する説明責任を果たしたことにはならない。

2026年時点で明らかなのは、「違法ではない」という言葉が、説明責任の免罪符として機能してきたという事実だ。結果がどうなろうと、契約は適法だったという一点で話は終わる。

比較サイトは「選んだのは利用者」と責任を転嫁した

比較サイトは、業者選定の参考情報を提供しただけだと主張する。実際には、2社間ファクタリングという手法そのものを前提条件として固定し、利用の是非を検討する余地を与えていないにもかかわらずだ。

だが最終的な選択は利用者自身で行われた。そう言われてしまえば、責任は完全に個人に帰属する。比較サイトはこの構造を通じて、市場を動かしながら責任を負わない立場を確立した。

士業は「助言していないから責任はない」という立場を取った

士業は止めなかったが、推奨もしていない。この中間的立場が、最も安全だった。関与していない以上、結果に対する責任は生じない。2026年になっても、この構図に変化はない。

問題は、沈黙が中立ではなく、結果的に現状を肯定する行為だったという点だ。しかしこの責任は、制度上も社会的にも問われることがない。

行政は「個別判断」の外に置いた

行政は2社間ファクタリングを明確に推奨しない一方で、正面から否定することも避けてきた。違法性が明確でない以上、注意喚起に留めるという姿勢は理解できる。しかしその結果、問題は常に個別案件として処理され、社会問題化しなかった。

2026年時点で確認できるのは、行政が動かない理由は理解され、動かない結果は誰も検証しないという状態だ。

最後に残された「自己責任」という言葉

こうしてすべての主体が責任を分解した結果、最後に残されたのが利用者の自己責任である。資金繰りに詰まり、検索し、比較し、申し込んだ。それは確かに本人の行動だ。しかし、その行動を誘導し、正当化し、警告を消去してきた構造が存在したことは否定できない。

自己責任という言葉は、本来は自由な選択があった場合にのみ成立する。選択肢が意図的に歪められていた環境での自己責任は、責任放棄に近い

2026年新春の総括として記録すべきこと

2社間ファクタリングは、誰かが強く推進したから定着したのではない。誰も止めず、誰も責任を負わず、誰も全体像を語らなかった結果として定着した。これは市場の失敗ではなく、責任設計の失敗である。

2026年の新春において重要なのは、これ以上「危険かどうか」を議論することではない。なぜこれほど明確な脱法金融が、問題にならない状態で放置されてきたのか。その構造を記録し、言語化することだ。

それを怠れば、次に同じ構造を持つ手法が現れたとき、また同じことが繰り返される。