ここまで見てきた通り、2社間ファクタリングは、問題が指摘されながら拡大し、広告が止まらず、明確な規制も入らないまま2026年を迎えた。構造は分かっている。危険性も語られている。それでも止まらない。この状況を前にして、「もう書く意味はないのではないか」という疑問が浮かぶのは自然だ。
結論から言えば、それでも書き続ける意味はある。
書くことで止まるとは、誰も思っていない
まず確認しておくべきなのは、2社間ファクタリングについて書くことが、市場を止める直接的な力を持つとは、もはや誰も考えていないという点だ。警鐘を鳴らせば解決する段階は、とっくに過ぎている。
それでも書く理由は、止めるためではない。「何が起きていたのか」を後から検証できる形で残すためである。
問題は、忘れられた時に最も歪む
金融の問題は、解決された時よりも、忘れられた時に歪む。2社間ファクタリングがもし将来、市場から自然に消えたとしても、その過程が記録されていなければ、「便利だったが役割を終えた金融」として美化される可能性がある。
しかし現実はそうではない。多くの事業者が、資金繰りの選択肢を失った末に行き着き、時間を削られ、再起の機会を奪われてきた。この事実は、書かれ続けなければ残らない。
声にならなかった側の代わりに記録するという役割
2社間ファクタリングの最大の特徴は、被害が声になりにくい点にある。倒産すれば、その事業者は市場から消える。語る余力も、場も残らない。結果として、問題は常に「個別の失敗」に還元されてきた。
書くことの意味は、その沈黙を代弁することにある。感情的に糾弾するのではなく、構造として何が起きていたのかを、淡々と記録する。この作業は、派手さはないが、無意味ではない。
「書かれていた」という事実が、後に効いてくる
多くの制度的な見直しは、事件や炎上をきっかけに行われる。しかしその際、必ず参照されるのは、「以前から指摘されていたかどうか」だ。誰も書いていなかった問題と、書かれていたが放置された問題とでは、意味がまったく異なる。
2社間ファクタリングについて書き続けることは、将来の議論において、「突然出てきた問題ではなかった」と示すための布石になる。
2026年新春の結論
2社間ファクタリングを巡る問題は、今すぐ解決されない。書いたところで、明日消えることもない。それでも書き続ける意味はある。それは、正義のためでも、啓発のためでもない。
記録のためである。
何が問題視され、なぜ是正されず、誰が止めず、どこで責任が曖昧になったのか。この全てを言語化し続けることが、唯一現実的にできる対抗手段だ。
問題が忘れられた時、それは必ず歪められる。だからこそ、書き続ける。止められなかった事実そのものを、曖昧にしないために。

