国家賠償三要件の再整理

不存在債権は「詐欺か?」「不当原因給付か?」

――「監督不作為」と「立法不作為」は、どこで国家責任に変わるのか

■ 国家賠償の争点は、常に三つに集約される

国家賠償法一条に基づく請求が成立するかどうかは、最終的には三つの要件に帰着する。

違法性。
過失。
因果関係。

行政訴訟において、この三要件のいずれかが崩れれば、請求は退けられる。

金融行政事件で国がほぼ常勝を続けてきた理由も、ここにある。

裁量論で違法性を否定し、政策判断で過失を否定し、立証困難を理由に因果関係を切る。

この三段構えによって、多くの国家賠償請求は門前払いされてきた。

しかし、二社間ファクタリングの場合、この三要件の構造そのものが、通常の事件とは異なっている。

ここでは、監督不作為と立法不作為が同時に存在する。

いわば、「二重不作為型国家賠償」という、極めて例外的な構図である。

■ 違法性――「裁量」の外側に落ちた二つの不作為

まず問われるのは、違法性である。

通常、行政の不作為が違法と評価されるためには、「裁量の逸脱・濫用」という極めて高いハードルを越える必要がある。

しかし、ここでは事情が根本的に異なる。

一方では、危険な市場を制度として放置した立法不作為が存在する。
他方では、その市場を把握しながら是正措置を取らなかった監督不作為が存在する。

どちらか一方だけであれば、裁量論によって逃げ切る余地は残る。

だが、両者が同時に存在する場合、裁量論は論理的に成立しない。

制度がなかったから監督できなかった、という弁解は、監督権限の存在によって否定される。
監督は裁量だった、という弁解は、制度放置という立法不作為によって否定される。

制度も作らず、監督もせず、危険な市場を長期間放置した。

この状態は、もはや「裁量の問題」ではない。

裁量の外側にある、純粋な放置である。

違法性の核心は、特定の処分をしなかったことではない。

危険な市場を、制度としても、監督としても、存在させ続けたという、継続的不作為そのものにある。

■ 過失――「知らなかった」では済まされない構造

次に問われるのは、過失である。

国家賠償における過失は、故意や重過失に限られない。

通常人として要求される注意義務を尽くしたかどうかで判断される。

この点でも、二社間ファクタリングの構造は極めて重い。

この市場は、秘匿された地下市場ではなかった。

銀行、証券、ファンドを経由し、金融庁の検査網の内部で、少なくとも断片的には継続的に観測可能な市場だった。

高率手数料、短期回転、継続依存構造、破綻の連鎖。
これらはいずれも偶発的な事故ではない。

業界全体の構造として、長年にわたり固定化されていた。

危険性は、十分に予見可能だった。

被害の拡大も、十分に回避可能だった。

それにもかかわらず、制度も作らず、是正措置も取らなかったのであれば。

そこに過失がなかったと主張することは、ほとんど不可能に近い。

ここで問われるのは、担当者個人の注意義務ではない。

国家として、市場の危険性にどう向き合ったかという、制度的注意義務そのものである。

■ 因果関係――「すべての倒産」を立証する必要はない

最後に、最大の関門とされる因果関係である。

行政訴訟で原告が敗れる最大の理由は、ここにある。

しかし、この点でも、二社間ファクタリングは例外的に構成しやすい事件類型である。

争点は、「この市場がなければ倒産しなかったか」ではない。

問われるのは、行政が適切に介入していれば、被害の発生または拡大を防げた高度の蓋然性があったかどうかである。

高率手数料と短期回転による資金流出。
ファクタリング依存度の急上昇。
金融機関からの信用遮断との連動。

これらの事実は、客観資料として比較的明確に立証可能である。

しかも、ここでは因果関係が一回限りではない。

制度放置という立法不作為と、是正しなかった監督不作為が、長期間にわたり被害を累積させている。

単発事故ではなく、制度事故である。

この種の構造的被害について、因果関係を全面否定することは、過去の判例理論から見ても困難である。

■ 三要件が同時に満たされるとき、国家責任は不可避になる

以上を総合すると、この事件の構造は極めて異例である。

違法性は、裁量論の外側にある継続的不作為として成立し得る。
過失は、危険性の高度な予見可能性と回避可能性によって裏付けられる。
因果関係は、制度事故としての累積被害という形で構成可能である。

三要件のいずれも、理論上、同時に充足し得る。

しかも、それを支えているのは単一の行政判断ではない。

立法不作為と監督不作為という、国家機構の二重の失敗である。

この構造の前では、国家賠償は例外ではなく、むしろ正面から検討されるべき問題になる。

■ 最後に問われるのは、「誰の責任か」ではない

ここまで来ると、もはや争点は技術的な法解釈ではない。

金融庁か。
国会か。
特定の政権か。

責任主体の切り分けは、二次的な問題である。

本当に問われているのは、国家として、危険な市場をどう扱ったのかという一点である。

制度を作らず、監督もせず、止める機会を持ちながら、止めなかった。

その結果として被害が拡大したのであれば。

国家賠償という制度は、本来、この種の事態のために存在している。