時効・除斥期間と救済の限界

不存在債権は「詐欺か?」「不当原因給付か?」

――なぜ多くの被害は、法廷にすら届かないのか

■ 国家賠償に立ちはだかる、最大の現実的障壁

国家賠償理論をどれほど精緻に構成しても、最後に立ちはだかるのは、極めて現実的な壁である。

時効と除斥期間である。

国家賠償法の請求権は、民法の不法行為と同様、原則として、

損害および加害者を知った時から三年。
不法行為の時から二十年。

この期間を過ぎれば、請求権は消滅する。

どれほど制度責任が重く、どれほど行政不作為が明白でも、期限を越えた請求は、原則として門前払いされる。

国家賠償において、最大の敵は国ではない。

時間である。

■ 二社間ファクタリング被害は、「時効にかかりやすい構造」を持っている

この問題を二社間ファクタリングに当てはめると、状況はさらに厳しくなる。

被害は、多くの場合、数年前、あるいは十年以上前に始まっている。

倒産した企業。
廃業した個人事業主。
破産して散逸した資料。

被害者の多くは、そもそも「行政の責任」を意識する前に、市場から消えている。

しかも、国家賠償における起算点は、「損害と加害者を知った時」である。

多くの被害者は、倒産当時、自分の失敗だと考えている。
ファクタリング業者の違法性すら、後になって初めて知る。

ましてや、金融庁や国会の不作為を「加害者」と認識することは、ほとんど不可能に近い。

結果として、理論上は成立し得る国家責任の多くが、時効の壁によって、最初から封じられている。

■ 除斥期間という「最終遮断線」

さらに厳しいのが、二十年の除斥期間である。

これは中断も停止も認められない、絶対的な期限である。

制度を放置し続けた期間が長ければ長いほど、逆に、救済の道は狭くなる。

制度事故型の事件にとって、これほど不条理な仕組みはない。

被害が長期にわたり累積し、社会問題化して初めて責任が問われる。

その時点では、最初の被害の多くは、すでに法的に切り捨てられている。

国家賠償制度は、構造的被害に対して、決定的に不向きな制度なのである。

■ それでも残る、いくつかの現実的突破口

もっとも、救済の可能性が完全に閉ざされているわけではない。

第一に、「不作為は継続している」という構成である。

監督不作為と立法不作為は、一回限りの行為ではない。

制度を放置し、是正しなかった状態が、現在まで継続していたと評価できれば、不法行為は継続中と構成され得る。

この場合、時効の起算点は、放置状態が終了した時点、すなわち制度改正や行政介入の時点にずれ込む。

継続的不作為という構成は、制度事故型事件における、数少ない有効な武器である。

第二に、「加害者を知った時」の解釈である。

被害者が単に業者の違法性を知っただけでは足りない。

行政の不作為という構造的原因を認識した時点が、起算点になると構成する余地がある。

検査資料の開示、国会審議、報道によって初めて行政責任を知った場合、時効はそこから進行すると主張できる。

第三に、破産管財人や法人による請求である。

管財人は、倒産後に初めて取引全体を把握する立場にある。

被害認識と加害者認識の時点を、倒産時ではなく、調査完了時にずらす構成が、実務上、最も現実的である。

■ それでもなお、救済には決定的な限界がある

しかし、どれほど工夫しても、限界は存在する。

二十年の除斥期間は、原則として動かせない。

すでに市場の初期段階で被害に遭った層の多くは、制度的に救済不能である。

ここに、この問題の最も深い矛盾がある。

制度を長く放置すればするほど、国家の責任は重くなる。
しかし、放置期間が長くなればなるほど、救済できる被害者は減っていく。

制度事故に対する国家賠償は、本質的に、常に「遅すぎる」のである。

■ 最後に残る救済の形は、司法ではなく政治である

この限界の先に、最後に残る道は一つしかない。

立法による救済である。

過去の薬害、戦後補償、金融被害事件がそうであったように、大規模な制度事故に対しては、最終的に、

特別補償法。
基金方式による和解。
政治決着による一括救済。

こうした形でしか、広範な被害は救えない。

司法は、制度責任を認定することはできる。

しかし、時間に切り捨てられた被害者を、すくい上げることはできない。

最後に問われるのは、法の正しさではない。

国家として、過去の放置とどう向き合うのかという、純粋な政治の問題である。