■ この問題は、悪質業者の話ではない
本連載で検討してきたのは、特定の業者の違法性ではない。
二社間ファクタリングという市場が、なぜ長期間にわたり放置され、拡大し、無数の中小企業を破綻に追い込んだのか。その制度的責任である。
被害は、偶然に発生したものではない。
違法業者が現れたから市場が荒れたのではない。
制度外市場を知りながら止めなかった結果として、違法業者が繁殖した。
問題の本質は、常に国家の側にあった。
■ 「二重不作為」という構図
国家賠償の枠組みに当てはめると、この問題の構造は極めて明確になる。
金融庁は、監督権限を持ちながら、実効的な規制を行わなかった。
国会は、市場の異常を認識しながら、立法措置を講じなかった。
内閣は、制度改正を先送りし続けた。
ここで成立しているのは、単なる監督ミスではない。
監督不作為と立法不作為が併存し、相互に補完し合いながら市場を放置した、いわば「二重不作為」の構図である。
止める権限を持つ者が複数存在し、その全員が止めなかった。
この市場は、偶然に放置されたのではない。
制度として、放置され続けたのである。
■ 責任主体は分散しているが、責任は消えない
行政責任の難しさは、責任主体が分散している点にある。
金融庁は監督機関であり、立法権限は持たない。
国会は立法機関であり、個別監督は行わない。
内閣は全体を統括するが、現場の判断は各省庁に委ねている。
しかし、この分散は、免責の根拠にはならない。
制度を止める権限と機会は、確実に存在していた。
それを誰も行使しなかったという事実だけが残る。
責任主体が複数に分かれているからといって、国家全体の責任が消えることはない。
国家は、一つの意思主体として、市場を放置したのである。
■ 司法救済の限界という現実
理論上、この構成は国家賠償として成立し得る。
しかし、現実の救済には、決定的な限界が存在する。
時効と除斥期間。
被害認識の遅れ。
個別立証の困難性。
制度事故型事件に対して、司法は本質的に後追いでしか対応できない。
制度を長く放置すればするほど、国家の責任は重くなる。
しかし、放置期間が長くなればなるほど、救済できる被害者は減っていく。
ここに、この問題の最大の矛盾がある。
国家賠償制度は、構造的被害に対して、決定的に不向きなのである。
■ 最後に残る救済は、政治しかない
この限界の先に残る道は、司法ではない。
立法による救済である。
過去の薬害、金融被害、戦後補償がそうであったように、大規模な制度事故に対しては、最終的に、
特別補償法。
基金方式。
政治決着による一括救済。
こうした形でしか、広範な被害はすくい上げられない。
ここで問われるのは、法の正しさではない。
国家として、過去の放置とどう向き合うのかという、純粋な政治の問題である。
■ それでも、この検証は終わりではない
しかし、この連載の目的は、過去の責任を断罪することだけではない。
ここで明らかになった構造は、過去の話ではない。
規制の隙間。
制度の空白。
「直ちに違法ではない」という言い訳。
同じ条件がそろえば、第二、第三の二社間ファクタリングは、必ず生まれる。
止められた市場を止めなかった構造は、今も形を変えて生き続けている。
■ 次に問うべきは、「この市場は何だったのか」である
ここまで問うてきたのは、国家の責任であった。
しかし、もう一つ、避けて通れない問いが残っている。
そもそも、二社間ファクタリングとは、何だったのか。
売掛債権の買取だったのか。
融資の代替だったのか。
それとも、最初から、貸金規制を回避するために設計された脱法スキームだったのか。
次章から、視点を変える。
行政の不作為ではなく、市場の中身そのものを検証する。
二社間ファクタリングは、本当に合法な金融取引だったのか。
それとも、最初から、脱法金融として設計された制度だったのか。
ここから先は、責任論ではない。
構造論である。

