なぜ2社間ファクタリングは「使った側が悪い話」にすり替えられるのか

不存在債権は「詐欺か?」「不当原因給付か?」

構造の問題が、意図的に個人の判断ミスへと変換される

2社間ファクタリングを巡る議論では、最終的に必ず同じ結論に誘導される。高いと分かっていて使ったのだから自己責任だ。契約書にサインしたのだから文句は言えない。冷静に考えれば回避できたはずだ。だが、この論法は最初から論点をすり替えている。問われるべきなのは個々の経営判断ではなく、判断を誤らせる構造が存在していたかどうかだ。構造を問われると困る側が、責任の所在を利用者一人に押し付けているに過ぎない。

「分かっていて使った」という言葉が無効化している前提

分かっていて使った、という言葉は一見もっともらしい。しかし、ここでいう「分かっていた」とは何を指すのか。年利換算で異常な水準になることを理解していたのか。回収不能リスクが実質的に利用者側へ転嫁されていることを理解していたのか。他の選択肢が意図的に見えなくされていた状況を認識できていたのか。考える時間が与えられず、比較も相談も遮断された状態での理解を、本当に理解と呼べるのか。この前提を検証せずに自己責任を持ち出すこと自体が不誠実だ。

業界にとって都合のいい「経営者は自己判断できる存在」という神話

2社間ファクタリングを擁護する側は、必ず経営者の自己判断能力を強調する。経営者なのだからリスクを理解して選択したはずだ、と。しかしその一方で、広告では「急いでいる方」「他で断られた方」「今すぐ必要な方」だけを狙い撃ちにする。冷静で余裕のある経営者ではなく、追い詰められた状態の人間だけを集客しながら、契約後は突然「自己判断できる経営者」という顔を要求する。この二枚舌こそが、合法ヤミ金、脱法ファクタリングと呼ばれる所以だ。

行政も司法も「使った側の話」に寄りかかる

このすり替えは、業者だけが行っているわけではない。行政は「個別具体的な判断」と言い、司法は「契約自由の原則」を持ち出す。こうして構造の検証を避けたまま、事案は常に個人の問題として処理される。だが、同じような条件、同じような広告、同じような導線で同じ結果が量産されている時点で、それは個別ではない。個人の判断ミスが繰り返されているのではなく、判断ミスが起きるよう設計されたモデルが放置されているだけだ。

「被害者意識を持つな」という圧力が沈黙を生む

使った側が悪い、という言説は、事後的な救済をも破壊する。相談すれば自己責任だと言われる。声を上げれば経営者失格だと嘲られる。その結果、多くの利用者は沈黙を選ぶ。沈黙は統計に現れない。統計に現れなければ問題は存在しないことになる。この沈黙の連鎖こそが、2社間ファクタリングが長く生き延びてきた最大の理由だ。

結論:自己責任論が出た瞬間、構造は隠蔽されている

2社間ファクタリングが「使った側が悪い話」にすり替えられるのは偶然ではない。構造を問われれば、このモデルは成立しなくなるからだ。だから責任は常に利用者一人に集約される。しかし、判断を歪め、時間を奪い、情報を遮断した上で成立する取引に、純粋な自己責任など存在しない。自己責任という言葉が持ち出された瞬間こそ、この金融がどれほど歪んでいるかを示す最大の証拠である。