「2社間ファクタリングは債権譲渡」――その一言が被害者を地獄に突き落とす

ファクタリングのトラブル

ある法律事務所のコラムにて、ファクタリングが合法か違法かというテーマについて語られている。内容は丁寧に整理されており、法律家らしい冷静な視点がうかがえる。だが、核心部分においては驚くほどに“ズレた”結論が提示されている。

「ファクタリングは貸付ではなく、あくまで売掛債権の譲渡であり、貸金業規制の対象にはなりません」

まるで教科書の一節のように語られるこの一文。だが、それを真に受けたが最後、事業者は高利に喘ぎ、破産や夜逃げに追い込まれる。「債権譲渡であれば合法」という建前に甘えて、違法金融業者が堂々と脱法行為を行っている現実を、この弁護士は見落としてはいないか。


建前としての“譲渡”、実態としての“超高利融資”

2社間ファクタリングとは、事業者が売掛債権(将来得られる入金)をファクタリング業者に「売る」ことで、先に現金を受け取る取引とされている。債権の譲渡であるため、民法上は貸付には当たらず、金利規制も適用されない──というのがこの業界で繰り返される理屈だ。

だが、よく見てみよう。「売却」と言いながら、債権回収が出来なければ資金を受け取った事業者に“返金義務”が生じる。これはまさに融資である。しかも、手数料と称して20~30%もの額を最初から引き抜く。1ヶ月先の債権を8掛けで買い取ることは、年利換算で実質300%以上の高利だ。

これを債権譲渡と呼ぶのは、詐術でしかない。


法の抜け道を堂々と歩く“合法ヤミ金”

問題の本質はここにある。2社間ファクタリングの多くは、形式上は債権譲渡だが、実質的には高利貸しそのものである。貸金業の登録も不要。利息制限法も、出資法も、全く適用されない。そのうえ督促も過激になりがちで、売掛先に通知すると脅して心理的圧迫を与える業者も後を絶たない。

にもかかわらず、この弁護士は“実態が融資に該当する場合には違法性がある”と軽く触れたうえで、基本的には合法であるという論調でまとめている。あまりに能天気ではないか。なぜ、現場で起きている凄惨なトラブルにまで踏み込まないのか。


被害者に寄り添わない“中立”は、加害構造の一翼だ

この種の「法律解説コラム」にありがちなのが、まるで論文のような調子で“中立”を装う姿勢だ。しかし、現実にはその「中立」というスタンスが、脱法業者に都合よく利用されている。

検索エンジンに「ファクタリング 違法」などと入力すると、こうした法律事務所のコラムが上位表示される。そこに「合法です」と書いてあれば、藁にもすがる思いの中小企業経営者は、業者のLPへと流されていく。そして、再起不能なまでに搾取される。

法的解釈を語ることは構わない。だが、同時に**「制度を悪用する業者が横行している」という現実への警鐘**がなければ、コラムは加害の共犯者となる。


ファクタリングの“本質”は、緊急資金ではなく“違法すれすれの延命”

さらに厄介なのは、この種のファクタリングがまるで資金繰りの救世主であるかのように語られることだ。だが、それは根本的な勘違いだ。ファクタリングは資金調達の手段ではない。「未来の収益を、現在の破綻を繕うために切り売りする」手段にすぎない。しかも法外な手数料で。

一度でもこの仕組みに手を出せば、以後は同じように次々と未来の売上を前借りするしかなくなる。これは破綻のスパイラルであり、延命ではなく“死の先送り”にすぎない。

それを、あたかも合法的な資金調達法として紹介し続ける法曹関係者がいるならば、彼らは無自覚に“経済的殺人”の片棒を担いでいると言っても過言ではない。


求められるのは、解釈よりも告発だ

このコラムの筆者には、ぜひ現場の声を聞いてほしい。ファクタリングの罠にかかり、事務所に駆け込んでくる経営者たちは、例外なく“債権譲渡だと信じた”人々である。そして、「合法だと聞いたから安心して使った」「あんなに高いとは思わなかった」と語る。

その言葉の裏には、法律家や専門家による中途半端な説明がある。被害者救済の観点に立つならば、「2社間ファクタリング=債権譲渡」という解説に終始するべきではない。むしろ、「現在のファクタリング実務は、制度を悪用した脱法高利貸しが跋扈する危険地帯である」と明言すべきなのだ。


まとめ:制度の“穴”を守るのではなく、被害者の側に立て

法は現実の後追いである。だからこそ、法解釈にこだわるのではなく、現実の惨状にこそ目を向けるべきだ。いま、2社間ファクタリングという名の合法ヤミ金が、何千、何万の零細事業者を食い物にしている。

このままでは、「弁護士の書いたコラムにそう書いてあった」という一文が、さらなる被害者を生むだろう。

法律家に求められるのは、形式論の解説ではない。現実の地雷原に注意を促し、そこから人々を導く“警告の声”であるべきだ。